学生の頃、ウィリアム・モリスが率いたイギリスのアーツアンドクラフツ運動(Arts and Crafts Movement)について調べていた時、柳宗悦という人の名を知りました。
同じような時期に、日本とイギリスというまったく別の場所で、大量生産による画一的なものを憂え「美」について考えを深めていった2人。素直に面白いと思いました。
そして、柳宗悦の「用の美」という言葉がすべてを語っているように、日用品の中に美を見出し、生活の中に取り入れようとする考えにとても共感したことを今でも覚えています。
芸術品ではなくて民芸品。
民芸品というと旅行先で買うお土産みたいな響きがあるかもしれません。
中にはそういうものもあるかもしれないけれど、柳宗悦のいう民芸品って、ざっくりまとめると「作家さんのぬくもりが伝わるもの」だったり「その作品が生まれた土地の心を感じられるもの」だったり「使い手の日常に寄り添うもの」なのだと思っています。
芸術品は観賞するこちら側もちょっぴり気合を入れてガラス越しに向き合う感じがあるけれど、民芸品は自宅の食器棚に収まっていたり、何気なく向けた視線の先にある壁にかかったタペストリーだったりするのでしょう。
今、柳宗悦の『民藝四十年』を読んでいます。
今日は「陶磁器の美」という作品を読んで感じたことを書いてみたいと思います。
デンマークに住んだことがきっかけで、北欧の古い食器の世界を知ることができました。
北欧は中古市場がとても活発で、フリマやフリマサイトなどが充実しています。どんなジャンルのものでも、新品を買う前にまずは中古で探してみるという人がずいぶん多いという印象があります。
お値段的に気兼ねなく日常使いできる素敵なヴィンテージ食器もいろいろとありました。
1点○十万円する美術品や骨とう品と比べると、北欧のヴィンテージ食器はプチプラです。だから、割れたりしてもそこまで懐は痛くない。その上、気に入ったものに囲まれて日常が楽しくなるし、価値も下がらない。「これ、好き!ほしい!」という内なる声に従って自分を喜ばせられることが嬉しくて、どんどんヴィンテージ食器の虜になっていきました。
そうしてコレクターと化した私は、出かけるたびに気に入った食器を買い集めていたのです。気づいたら食器棚も地下室もいっぱい!
好きが高じて一時はバイヤーになって日本でヴィンテージ品を販売したりもしました。
そして、柳宗悦のこの文章を読んで、
なぜ私が食器に惹かれるのか、もっと深い部分で分かった気がしました。
わけても陶磁器の美は「親しさ」の美であると思う。私達はそれ等の器に於いて、静かな親し気な友を、いつも傍近く有つことが出来る。それは殆ど私達の心を乱すことなく、いつも室内に私達を迎えてくれる。人は彼の好むままに彼の器を選べばいい。器も亦常に私達の好む場所に置かれることを待っている。それは全く人々の眼に触れようとて作られたのではないか。静かに黙するそれ等の器も、必ず彼らに相応しい心情を内に宿している。私はそれ等のものが愛の性質を有っていることを疑うわけにはゆかぬ。それは美しい姿を有っているではないか。而も其の美しさは心の美しさが産んだのではないか。それは可憐な一人の恋人である。労われた吾々にはそれが如何に厚い無言の慰め手であろう。彼等は一時でも其の持ち主を忘れはしない。彼等の美しさはいつも変わらないではないか。否、日増しに其の美しさを加えるように思えるではないか。私達も彼等の愛を忘れるわけにはゆかぬ。(p.129-130)
そう、
一客のカップを両手に包んだときの何ともいえない温かな感じ。
それは陶磁器の愛であり、作り手の愛だったのですね。
一枚のお皿に強く惹かれるとき、私の内に呼び覚まされるもの。
それは器が内包する愛に呼応したからなのですね。
柳宗悦はこうも言っています。
陶磁器を只の器だと思ってはいけない。器と云うよりも寧ろ心である。それも愛の籠る心である。親しさの心に充ちた美であると私は思う。(p.131)
その「愛の籠る心」が私たちが生きる上でいかに大事なものなのか、、、
ずいぶんと厚みのあるこの本を読み進めながら考えてみたいなと思います。
自分の好きをとことん追求した柳宗悦はある意味わたしの憧れです。この先達を見習って、私も器の持つ温もりを、美を楽しむ心を、もっと意識的に持ちたいものです。
自分が何を美しいと思うのか、、、
正直さを忘れたくないとも思います。
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